久世で生まれた奇跡の味
美作久世むかしかすてら 伝統と成り立ち
かすてら専門店
米菓子・饅頭などを製造していた和菓子業おかのほんやは、昭和20年代に卵の価格が安定した事で、かすてらが主力商品となりました。
長崎のかすてらは、水飴をふんだんに使った味わいの濃いものだったため、一代目は地域の人の嗜好にも受け入れられやすいかすてらを作りました。
このかすてらは一代目が山口県にいた時従事していた美術家脇本楽之軒(わきもとらくしけん)(甥は陶芸家、勝坂焼の脇本定三)の生家の菓子商の主人より「長崎でも東京でもない独自の味」と高評価を得、自信を持って販売される事となったのです。
一代目は材料の価格は商品から見れば小さいので常に1段上の材料を使え、材料をけちるな、職人になるなと言っていましたが、これは菓子商の主人が毎日菓子を改め、味の違いを言い当てて、腕に溺れて材料を減らした職人を諫める様子をから得た体験が元になっています。かすてらを絶賛した主人は些細な分量による味の違いも見破る非凡な味覚の持ち主でした。
一方、一代目の妻が焼いたかすてらは、膨らみを抑え、しっとりと柔らかい生地に仕上がっていました。一代目の作ったレシピに家庭的な味わいが統合されたのです。その虜となった顧客は多く未だに昔のかすてらが食べたい、お婆さんの焼いたかすてらが美味しかったという声が後を立たず思い出と共に愛着を寄せられています。
むかしかすてらの誕生
おかのほんやのかすてらは製造販売の拠点が久世に移った事で販路が広がり、全国に知られるようになりました。
2代目瓜生倫子は現代の流通事情に合わせて材料の見直しを始めました。材料を追い求める過程では価格に合わないなどの失敗もありましたが、粉・飴を改良し、味を一段階上に引き上げました。この味が一代目に絶賛された事で久世のかすてらの味の方向が定着していくことになった。電気釜購入の際、焼き方の指導に訪れた長崎名人が試食して「これは上品なかすてらだ」と驚いたと言います。
倫子は印刷関連業務を行っていたため、化粧箱・包装・ラベルなどの改良を行いました。また製菓資材を新しく取り入れた事でかすてらの仕上がりが美しくなりました。
夫の正二は効率化という概念を製造に取り入れ、多段階の工程表を作り、カッティングの道具や製紙を固定する錘を作るなど手仕事ながら安定して作業速度を上げるための工夫を行いました。
1代目のレシピがこのように洗練される事で、全国にファンを増やしたこのかすてらはむかしかすてらと命名されました。